島津義弘の桜島蟄居

c0168955_7485085.jpg▼慶長5/1600年9月15日、関ケ原合戦に敗れた義弘は敵中突破し、わずかな人数で郷里に帰還した。その後、義弘は敗北の責任をとる形で桜島に蟄居したといわれる。それにはどんないきさつがあったのか。▼島津氏の正史とされる「島津国史」には翌6年3月条に「公(義弘)自ら、向いの島/桜島藤野村に囚わるること数月、神祖(徳川家康)これを赦す」とある。その割注には「義弘は4月5日から6月7日までの2カ月間、藤崎助兵衛広相の居宅に寓した」とある。▼この中でいくつか確認したい点があり調べてみた。<1>義弘が自発的に蟄居したのか <2>蟄居期間の2点だ。まず<1>だが、義弘は帰国直後の10月から11月にかけて蒲生城の普請にかかりきりで、あくまで徳川方に対する抗戦姿勢を維持していた。▼一方で、島津家中や義弘の兄・義久は義弘に‥‥ 続きを読む♂
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by tomhana0901 | 2013-07-26 03:09
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