IE9ピン留め
戦国一の美女
深い優しさをたたえた切れ長の目と漆黒の髪。
菊や桐の地模様が浮かび上がった小袖に腰に巻いた紅色の打ち掛け。
戦国時代一の美人画と称されるお市の方を描いた肖像画。
その人生はしかし悲劇的だ。織田信長の妹に生まれ、近江の浅井長政に嫁いだが、
戦国の非情で夫は兄に滅ぼされ、3人の娘と生き延びた。
しかし、再婚した柴田勝家は豊臣秀吉に敗れ、娘達だけを逃して36歳で自刃した。
敗者の姿がなぜ高野山に残ったのか。一緒に奉納された長政像には1589年
『ある人がが画工に命じた』と記されている。
ある人とは生き残った3姉妹の長女を指すという説が有力だ。その人は淀殿である。
淀君と書いた方が判り易いのだが、君は現代の語感からは意外だが遊女に使う蔑称だった。
母を死に追いやった秀吉の側室となり、やがてはその豊臣家も滅亡させたと蔑まれ、
そう呼び慣らわされるようになったという。

400年前の女性を描いたもう1枚の肖像画が奈良県立美術館にある。淀殿と伝わる絵だ。
切れ長の目、筋の通った鼻、小さな口、そしてうりざね顔。
一つ一つの部分を取り出してみると戦国一の美女とされる母お市の方の像とよく似ている。
淀殿の像の制作年ははっきりしないが、母に似せて描いた可能性は充分に考えられるのだが、
全体の印象は大きく異なっている。母と比べて娘は冷たく怖い雰囲気なのだ。
2枚の絵が象徴するように歴史の中で淀殿は母とは異なるイメージで語られてきた。
権力への執着は人一倍で、母の仇である豊臣秀吉の側室になることさえ厭わず、
正室おねや他の側室と張り合い、秀吉との間に子ができるとその子に盲目的な愛を寄せた。
高慢で勝ち気な性格が秀吉の死後、徳川家康から人質になるよう言ってきた要求を拒否し、
それが大坂冬・夏の陣を招いたと歴史は豊臣家を滅ぼした役割まで淀殿に負わせている。

肖像画に描かれたお市の方は右手に経巻を握りしめ、夫の菩提を弔う姿で描かれている。
長政17回忌、お市の方7回忌にあたる1589年に供養のため制作されたという。
依頼主が淀殿とすれば、もっと早くに両親の供養をしたかったはずだ。
が、それは天正17年だからこそ実行できた。この年、淀殿は秀吉の嫡子鶴松を生んだ。
鶴松は3歳で亡くなるがその後、秀頼を出産して淀殿は豊臣家で地位を確立する。
しかし淀殿の後世のイメージを排して、客観的に文献をたどれば
それまでの淀殿は秀吉の手紙にも登場しない目立たない存在だった。
更に淀殿は生き残った浅井家の者達を豊臣家で登用していたことも判ってきた。
5歳で父を、15歳で母も失った少女はその後も一族の長として責任を果たしていたのだ。

ただ、父母の肖像が残る高野山には淀殿の名は伝わっていない。
絵は淀殿の妹・初の婚家の菩提寺があったため奉納されたのではと口伝されているだけだ。
徳川家が強大になって高野山は関係の深かった豊臣家との繋がりを曖昧模糊にした。
徳川と最後まで戦った『淀君』の名はなおさらだった。
その徳川家と淀殿は秀吉の死後17年にわたって対峙した。
後年は心的外傷後ストレス障害だったようで気鬱からくる胸の痛みや頭痛に悩まされた。
それでも、冬の陣では「着武具、番所改給、随之女性三四人着武具云々」と記録にある。
自ら甲冑をつけ、同様に武装した女房を従えて大坂城内を激励して回ったというのだ。
秀頼の後見というより城主そのもの。大きな責務を果たそうと力を振り絞り散っていった。
そう考えると、戦国一の美女像は淀殿の心ばえを映しているように思えた。
お市の方を描いた肖像画
by tomhana0901 | 2007-06-26 06:49 | Trackback | Comments(1)
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Commented by エロ at 2008-01-18 19:14 x
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